【松永久秀の生涯・後編】「悪人」の汚名を背負って。【戦国人物録:File04】
上白沢慧音(以下:慧音)「戦国時代の人物について紹介していくこのシリーズ。今回のテーマは前回に引き続き、戦国武将・松永久秀(1508~1577)だ。彼の前半生については、前回の講義(記事)をチェックしてくれ。」
↓前回の記事はこちら↓
大和守(以下:守)「前回は久秀が低い出自から異例の出世を果たした前半生、そして彼が行ったとされる3つの悪事のうち、『主君・三好氏への下剋上』が事実ではない、って所まで確認したよね。」
慧音「ああ。だがあと2つ残っているわけだ。」
↓久秀の3悪事ー「世人のなしがたき事」↓
- 室町幕府第13代将軍・足利義輝の暗殺
主君・三好氏への下剋上- 東大寺大仏殿を焼き払う
今回は残り2つの「悪事」を再検討しつつ、彼の後半生を追っていくことにしよう。
お願いしまーす!
チャプター01:『世人のなしがたき事』の再検討~②将軍・足利義輝暗殺~
永禄の変の舞台となった二条御所(武衛陣の御構え)跡(京都府京都市)。現在は平安女学院中学校の敷地。
慧音「1564(永禄七)年7月9日、久秀の主君・三好長慶が41歳の生涯を閉じた。これにより、1558(永禄元)年の和睦以来表向きは協調関係にあった幕府・三好の関係は、新たな局面を迎えることになる。
将軍・足利義輝は三好の傀儡に甘んじるような人物ではなかった。1559(永禄二)年に長尾景虎ら新興大名を上洛させたのを皮切りに、各地の大名への栄典付与や和睦仲介など積極的な介入を行い、幕府秩序の再建を試みた。それらの取り組みは必ずしも全てが上手くいったわけではなかったが、将軍の存在感は確実に増していったことだろう。1562(永禄五)年には、三好氏と近かった政所執事の伊勢貞孝を排除し、自らに近い摂津晴門へ交代させることにも成功した。
一方の三好方は、嫡男・三好義興を筆頭に有力な一門が次々に没し、力の衰えは隠せないものとなっていた。双方の緊張の高まりが背景にあるのか、1563(永禄六)年には、義輝が久秀の元へ当時8歳の娘を人質に出したことが記されている。」
将軍が家臣に人質を出したってこと?そんなのあることなの?
慧音「普通は有り得ないな。三好方の焦りの表れだろう。そんな中、大黒柱たる長慶がこの世を去った。
三好氏はもはや将軍を抑える力を失おうとしている。
若き当主・三好義継は強硬手段に打って出ようとしていた。」
辰刻三好人数松永右衛門佐等、以一万計俄武家御所へ乱入取巻之、戦暫云々、奉行衆数多討死云々、大樹午初點御生害云々、不可説不可説、先代未聞儀也、阿州之武家可有御上洛故云々
大意
『言継卿記』永禄八年五月十九日条
辰の刻(午前8時頃)、松永久通ら三好の軍勢1万人ばかりが突如将軍の御所へ乱入してこれを包囲し、しばらく戦闘があり、奉行衆が多数討死したとのことだ。将軍は午初(午前11時頃)に殺害されたとのこと。不可説不可説、前代未聞のことである。阿波公方(足利義栄)が上洛するためだという。
慧音「1565(永禄八)年5月19日、三好軍が将軍のいる二条御所を襲撃、義輝を殺害するという暴挙に及んだ。世にいう永禄の変だ。」
松永久通(ひさみち)って?
久秀の嫡男だな。
じゃあ久秀はこの場にいなかったってこと?
慧音「いれば真っ先に名前が書かれるだろうからな。彼はいなかったと考えるのが自然だろう。久秀は義興が亡くなった1563年に家督を久通に譲っており、それ以後は基本的には大和に在国していたらしい。
『言継卿記』には変の前日に義継、久通、三好長逸が軍勢を率いて上洛してきた旨が記されているから、彼らが実行犯と考えられる。実行犯として久秀の名前が出てくるのは、『足利季世記』など後世の軍記物語からだ。」
守「でも直接手を下していないとしても、息子が襲撃に加わってるんだから、久秀も裏で糸を引いてたんじゃないの?」
慧音「その可能性は否定しきれないが、義継たちと久秀の動きには温度差があるんだ。
義継たちは襲撃の際、義輝の母・慶寿院や弟の周暠(しゅうこう)、側室まで殺害する徹底ぶりだった。一方の久秀は、義輝の弟・一乗院覚慶(後の足利義昭)を保護している(注)。連携した動きとは思えない。」
(注)この後覚慶は、1566(永禄九)年に還俗して「義秋」、1568(永禄十一)年に「義昭」と改名しますが、ここでは便宜上「義昭」で統一します。
守「う~ん、確かに一枚岩って感じはしないかも…。」
そもそも、義輝殺害の動機は何だったんだろう?
慧音「それについてはいくつかの説が唱えられていて、現在でも意見の一致を見ていない。主な説は以下の通りだ。」
- 足利義栄(よしひで)、もしくは義昭を擁立するため
- 室町幕府そのものを打倒するため
- そもそも義輝を殺すつもりはなかった
最後がメチャクチャ気になるんだけど?!
永禄の変については、次回講義で改めて説明するつもりだ。今回は「久秀は義輝暗殺の実行犯ではなかった」という史実の確認をもって、通説の否定をするところまでにさせてほしい。
足利義栄(1540~1568)
足利義輝の従兄弟にあたる。三好三人衆らに擁立され、征夷大将軍となる。味方が織田信長率いる上洛軍に敗れたため阿波に逃れ、一度も入京できないまま病死した。
↓永禄の変についてはこちら
チャプター02:『世人のなしがたき事』の再検討~③東大寺大仏殿の焼き討ち~
慧音「将軍・義輝を亡き者にした三好氏だったが、その年のうちに久秀・久通親子と三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)との間で対立が始まった。
事の始まりはこの年の7月28日、興福寺で久秀の庇護下にあった義昭が、和田惟政・細川藤孝ら幕臣の手引きで脱出、甲賀へ逃れた。義昭の存在は、三好氏と敵対する諸大名にとって、戦う上での恰好の大義名分となり得る。そして8月2日、丹波を預かっていた久秀の弟・長頼(内藤宗勝)が有力国人・荻野(赤井)直正に討たれ、三好氏は丹波を失陥することとなった。
これら2つの失態の責を久秀に負わせる形で、11月15日に三人衆の軍勢が義継の居城・飯盛山城に乗り込み、久秀との断交を迫った。これによって久秀は三好家中で影響力を失い、翌12月には筒井順慶ら三人衆に与した大和の国人との間で戦いが始まった。」
そもそも何で対立するようになったんだろう?
慧音「はっきりしたことは分からないが、先の永禄の変で浮き彫りになった幕府との距離感の差、政権構想の違いが要因かもしれないな。
久秀は義昭を支援する畠山秋高(高政の弟)と結ぶなど巻き返しを図ったが、阿波三好家の家老・篠原長房率いる三好四国方面軍の援護を受けた三人衆側の前に劣勢に追い込まれていった。」
阿波三好家
長慶の長弟・三好実休が阿波を含む四国方面の領国統治を担当しており、便宜上こう呼ばれる。篠原氏など三好譜代の家臣や、長慶の叔父・三好康長らが配された。実休死後は嫡男の長治が相続、三好三人衆の後ろ盾として織田信長と戦いを繰り広げた。
篠原長房(?~1573)
阿波三好家の重臣。三好実休死後は若年の当主・長治を補佐、分国法「新加制式」の制定に携わり、四国の三好軍を率いて畿内各地を転戦するなど、阿波三好家を軍政両面で取り仕切った。義昭上洛後も織田信長と戦い続けたが、織田氏との和睦を志向する長治と対立し、粛清された。
慧音「事態が急変したのは1567(永禄十)年2月。三好氏当主・三好義継その人が、三人衆方から久秀方に寝返った。」
「当主が寝返った」って、パワーワードすぎる…。何でそんなことに?
慧音「三人衆らが摂津に渡海してきた将軍候補の義栄ばかりをひいきにして義継をないがしろにした、長房と政権構想を巡って対立した、など理由は諸説あるが、義継が三人衆に不満を募らせていたのは事実のようだ。
出奔の直前に長房へ宛てた書状には、三人衆のせいで『外聞面目を失った』『もはや人形同然である』『当家も今のままでは存続できない』など怒りをあらわにしている。そして、周辺国の国人に『(三人衆は)構えて悪逆無道、前代未聞の所業』『久秀の大忠を見放すことは出来ないので味方に付く』と宣言した書状をばらまいた。」
三好康長(生没年不詳)
長慶の叔父。後に剃髪して「咲岩(しょうがん)」と号す。阿波三好家に付けられ、実休・長治親子を補佐した。長慶死後の争いでは三人衆側に与する。三好宗家滅亡後も信長に抵抗を続けるが、1575(天正三)年に降伏。四国統治を巡って織田氏と長宗我部氏が対立すると、四国への影響力を期待される。この「親長宗我部→親三好」という四国政策の転換が、本能寺の変に影響を及ぼしたという見方もある。信長死後は羽柴秀吉に接近、秀吉の甥・治兵衛(後の豊臣秀次)を一時養子に迎えた。
守「これで風向きが変わりそうだね。」
慧音「義継という大きな味方を得た久秀方は息を吹き返し、この年の4月には多聞山城を取り返した。三人衆の軍勢も奈良に布陣、以後半年間奈良の街を舞台に散発的な戦闘が繰り返される。
そして10月10日、久秀が東大寺に陣取る三人衆勢に夜襲を掛けた。」
今夜子之初點より、大佛ノ陣へ多聞山より打入合戰及數度、兵火の余煙ニ穀屋ヨリ法華堂へ火付、ソレヨリ大佛ノ廻廊へ次第ニ火付テ、丑刻ニ大佛殿忽燒了、猛火天ニ滿、サナカラ如雷電、一時ニ頓滅了、
大意
『多聞院日記』永禄十年十月十日条
今夜子初(午後11時ごろ)より、大仏殿の陣へ多聞山より(松永勢が)打ち入って数度合戦があり、兵火が穀屋から法華堂に付き、そこから大仏殿の回廊へ延焼し、丑の刻(午前2時ごろ)には大仏殿がたちまち焼失してしまった。猛火は天に広がり、さながら雷が落ちる如く、一時に滅してしまった。
当時の僧侶の日記だ。
久秀がやったとは書いてないね。
慧音「そう、能動的に火を放ったのではなく、戦の中での失火だったようだ。後世の軍記物語ですら、『足利季世記』では『あやまりて火もえ付』、『続応仁後記』でも『何の間にか放火燃付き』と、彼の関与には触れていない。
もちろん戦の当事者だったわけだから、彼に全く責任がないとは言えないが、『久秀が大仏殿に陣取る三人衆勢をあぶり出すために火を放った』という通説は、極めて疑わしいということが分かるな。」
チャプター03:信長に「2度叛いた」男~元亀二年・1度目の「謀反」~
慧音「明けて1568(永禄十一)年2月8日、三人衆らが推す足利義栄に将軍宣下がなされ、室町幕府第14代目となる征夷大将軍に任官した。三人衆方が旗印を得たことで久秀方は再び苦境に立たされる。
しかしその年の9月、東の一大勢力が足利義昭を奉じて上洛の兵を起こそうとしていた。」
ついにあの男が来るんだね…。
そう、織田信長だ。
慧音「そもそも義昭は早くから信長に接触し、支援を求めていた。2年前の1566(永禄九)年にも信長が伊勢方面から上洛を目指したが、情勢の悪化から断念した経緯がある。」
守「久秀は三人衆に対抗するために義昭方についていたから…、信長と久秀は早いうちから同盟関係だったってこと?」
慧音「同じ義昭を奉じる者同士、間接的な同盟関係だったと言えるな。だから、従来語られてきた『将軍・義輝を殺害した久秀の魔手から逃れるために義昭が脱出した』『信長率いる上洛軍の前に久秀は降伏を余儀なくされた』といった説は、事実関係からして間違っている。
ついでに言うと、義昭が朝倉義景に見切りをつけて初めて信長と接触したわけではなく、それより前の段階から両者は手を結んでいたということだ。
信長は義昭を伴って上洛、不利を悟った三人衆方は阿波へ引き上げた。義昭は正式に征夷大将軍へ任官、ここに将軍・義昭を織田氏、三好氏(義継)、松永氏、畠山氏などが支える新たな政治体制が誕生した。久秀も、新体制の下で大和支配を推し進めていった。
しかし、2年後の1570(永禄十三/元亀元)年、彼らは早くも危機を迎えることになる。」
「信長包囲網」だね…。
慧音「1570年4月、朝倉義景討伐のため越前に着陣していた信長軍のもとに、北近江の浅井長政離反の知らせが届く。信長は素早く撤退の決断を下し、被害を最小限に食い止めることが出来た(金ヶ崎の退き口)。この時、撤退の進路上に位置する近江の国人・朽木元網の説得に当たったのが、参陣していた久秀と言われている。
浅井・朝倉氏は、反撃の機会を窺う三人衆(注)や阿波三好家、石山本願寺や伊賀に追われていた六角氏とも連携し、義昭幕府に対する包囲網を形成した。」
(注)三人衆の1人である三好宗渭はこの前年に病没していますが、便宜上引き続き「三人衆」と表記します。
敵対対象は信長そのものというより義昭幕府なわけだから、「義昭包囲網」と呼ぶ方がより適切かもな。
慧音「多くの敵に囲まれて苦境に立たされた義昭は、ひとまず和睦の道を探る。久秀も自分の娘を人質に出すなど、三人衆や阿波三好家の懐柔に奔走。和睦成立に大きな貢献をした。
戦が収まったのも束の間、翌1571(元亀二)年7月、畿内情勢を一変させる出来事が起こる。久秀・義継・三好長逸らの軍勢が、幕臣・和田惟政の守る摂津高槻城を攻撃。久秀が事実上、義昭幕府から離反した。」
和睦のために働いてたのに、何で突然寝返ったの?!
これについては見解が分かれているから、少し細かく説明しよう。まず、時系列はこのようになっている。
動機として考察すべきポイントはこの辺りだ。特に見解が分かれているのは3と4。
守「結論がつけがたいね…。」
慧音「4なんかは、どっちが先に不義を働いたか、っていう話になってくるな。現状確からしいのは、『義昭・順慶の盟約が謀反の直接の引き金を引いた』という点だろう。
そしてここでもう1つ押さえておきたいのが、今回の謀反が『義昭への謀反であり、信長への謀反ではない』という点だ。」
守「あっ、そう言われるとそうだ!」
慧音「信長と久秀は国力の差はあれど、あくまで同盟者であり、立場は対等。だから、信長への謀反という認識は正しくない。この時代をどうしても信長目線で見てしまうこと、義昭が信長の傀儡であるという認識があること、これらが生み出した誤解だな。」
久秀の動機はこの辺にありそうだけど、義継も離反したのは何でだろう?
それもはっきりしないな…。松永・三人衆・阿波三好を再び自らの下に結集させて、三好宗家を復活させようとしたのか…。今後の研究に期待しよう。
慧音「義昭と同盟を結んだ順慶は勢いづき、8月4日には大和辰市の戦いで松永方に大勝。一方の三好・松永方も、8月28日に摂津白井河原の戦いで惟政を討ち取るなど、両者の攻防が繰り広げられた。信長も畠山氏への軍事支援を本格化させ、将軍・義昭も1572(元亀三)年1月に三人衆の1人・石成友通を寝返らせるなど、久秀・義継離反に対抗していく。
しかし1572年の10月、ある大国が動き始めたことで、両者の軍事バランスは一変することになる。」
守「ある大国…?」
慧音「甲斐の虎・武田信玄だ。」
慧音「前年に相模北条氏との同盟を復活させた信玄は、かねてより領地争いを繰り返していた遠江・三河の徳川領に全面侵攻を開始。それまで友好関係にあった織田氏との関係も断絶となった。12月22日には、迎え撃とうと出陣してきた織田・徳川連合軍を三方ヶ原で粉砕した。」
あぁ、家康が漏らしたという噂の…。
あれも後世の創作だぞ。
慧音「信玄が包囲網に加わったことで、信長に勝ち目無しと判断した義昭は、翌1573(元亀四/天正元)年2月、浅井・朝倉・三好・松永らに一味し、反信長陣営に加わった。」
守「そもそも義昭が反信長を呼び掛けたんじゃないの?」
慧音「それについては、近年否定する見解も出てきている。かねてから義昭と信長の関係は微妙なものになってはいたようだが、それでも決定的に対立していたわけではなかった。表立って敵対するようになるのは、信玄が動き始めた後。
義昭が包囲網を構築したのではなく、包囲網によって追い詰められた義昭が信長を見限ったというのが提唱されている説だな。」
慧音「将軍までが寝返ったことで万事休すと思われた信長だったが、巨大勢力に思われた包囲網はこの後あっさり瓦解してしまう。
まず義昭が最も頼みとした武田軍は、信玄の病状悪化により4月には甲斐へ引き上げていった(信玄は同月病没)。
西の阿波三好家でも、当主・長治が信長との和睦を志向し、対織田主戦派だった重臣の篠原長房を粛清。包囲網から実質離脱した。
そんな中、信玄の死を知らないためか強気な義昭は、1度成立した和睦も破棄して7月に宇治槇島城で挙兵。結局18日には降伏し、京都を追われて義継のいる河内若江城に身を寄せた。これにより、室町幕府は事実上滅亡した。
翌8月2日には石成友通が山城淀城で討死、三好長逸もこの年のうちに消息不明になってしまい、三好三人衆も完全消滅。8月20日には朝倉氏、9月1日には浅井氏が滅亡した。」
凄いダイジェスト感…。大河ドラマの後半みたい
慧音「義昭が紀伊へ移っていった直後の11月、信長は若江城へ軍勢を派遣した。16日には城が陥落し、義継は自害。久秀が長年仕え、栄華を誇った三好宗家はここに滅亡した。
この直後、久秀は信長へ降伏を申し出る。信長はこれを承諾、久秀は自ら多聞山城を明け渡し、信貴山城へ移った。」
信長としては、久秀が叛いたのは義昭に対してだったから、特に遺恨もなかった、ってことかな?
そうだな。「有能だったから許した」という通説より、そっちの解釈の方がしっくりくるだろう。
チャプター04:信長に「2度叛いた」男~天正五年・2度目の謀反~
信貴山城跡(奈良県平群町)。『信貴山縁起絵巻』で著名な朝護孫子寺も、兵火により全焼した。
慧音「信長に降伏したことで、久秀はいよいよ信長の1家臣という立場になった。しかし大和統治が任されることはなく、1575(天正三)年、大和には信長の重臣・塙(ばん)直政が守護として入った。
この年の4月には、宗家滅亡後も抵抗を続けていた三好康長が降伏した。翌5月には三河長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田軍を撃破。いよいよ天下は信長のもとに定まりつつあった。」
生きながらえはしたけど、何か時代に取り残されたようだね…。
慧音「久秀は家のことを久通に任せ、今度こそ本格的に隠居しようとしていたらしい。
しかし翌1576(天正四)年5月、大和衆を率いて本願寺攻めの司令官を務めていた直政が敵襲によって討死。織田軍は崩壊し、明智光秀らがわずかな兵と共に前線の天王寺砦で包囲されてしまう。信長は急ぎ軍勢を集めたが、歴戦の将として久秀も招集された。」
守「せっかく引退して余生を送ろうとしてたのにね。」
慧音「織田軍は急な招集ということもあり、十分に兵が集まらなかった。しかし信長は、集まった3000ほどの兵を率い、自ら先頭に立って約5倍の本願寺勢に突撃。久秀も先陣として一員に加わった。結局、信長自身が傷を負いながらも敵を撃破し、味方の救出に成功した。」
信長かっこいい!危険を冒してでも光秀たちを助けに行ったんだね。
慧音「直政の討死は、大和情勢に変化を及ぼす。信長は、後任として久秀の宿敵である筒井順慶を大和の支配者に任じた。そして、多聞山城の破却も決定。かつて大和支配の象徴として久秀が心血を注いで築城した多聞山城は、無情にも解体された。」
守「久秀が人生の多くを費やした業績が全て否定されるようだね…。」
慧音「1577(天正五)年8月17日、本願寺包囲の陣中にあった久秀父子は、持ち場の砦から退去し、信貴山城に籠城した。
当時、備後の鞆(とも)に逃れていた足利義昭の呼びかけにより、摂津の本願寺、紀伊の雑賀(さいか)衆、安芸の毛利輝元、越後の上杉謙信、甲斐の武田勝頼らが再び『信長包囲網』を構築しつつあった。久秀は彼らと連携した上で謀反に踏み切った。」
守「ついに2度目の謀反の時が来た…!でも今回の謀反の理由は何だろう?」
慧音「確たる史料があるわけではないが、立場を失って埋もれてしまうことへの危機感だろうな。でもそんな政治的な理由以上に、感情的な理由が大きいように思う。信長譜代の塙直政はともかく、順慶の下につくことだけは嫌だったんじゃないか?」
順慶とはずっと戦い続けてきたからね…。
まさに『不倶戴天の敵』ってやつだな。
慧音「信長は驚き使者を派遣して説得に当たったが、もはや久秀が応じることはなかった。10月、信長の嫡男・信忠率いる大軍が信貴山城を包囲した。10日に城は落ち、久秀・久通父子は自害した。久秀、享年70。
ちなみに、久秀が所持していた大名物・平蜘蛛の釜は落城時に失われたとされているが、一方で破片を集めて修理され、3年後の茶会で使用されたという記録もある。」
いずれにせよ、爆死は後世の創作だ。
まあここまで講義を聞いてきたら、爆死はしてないんだろうなぁってことは想像がついたよ…。
おわりに
…以上が松永久秀の生涯だ。
ずいぶんイメージが変わったよ!全然悪人じゃなかったんだね!
慧音「そうだな。特別悪人というわけじゃない、普通の有能な戦国武将だった、というのが実像だろう。」
守「何で後世、天下の大悪人みたいに言われるようになったんだろう?」
慧音「彼が主君・三好長慶と並び、家柄を無視した昇進をしたのが大きかったように思う。旧来の秩序を重んじる人々の目に、彼らはそのあるべき姿の破壊者として映ったはずだ。
とりわけ久秀は、外様の家臣でありながら三好一門に並ぶ栄誉を受け、長慶の死後は行きがかり上とはいえ主家と争うことになった。結果、主君に仇を成した男として悪し様に言われるようになってしまった。まして久秀は敗者となったわけだから、好き放題に扱われてしまう。
そんなイメージは、江戸時代に入ってさらに膨らんでいく。江戸幕府の広めた朱子学思想により、1人の主君に忠義を尽くすことが武士の美徳とされるようになった。その価値観に則れば、『主君へ下剋上をした』久秀は、まぎれもない悪人だ。そこに将軍殺しやら大仏殿焼き討ちやらの話が付け加えられ、講談などを通して世間に伝播していった。
こうして完成した『大悪人・松永久秀』像は、ついに今日まで改められることはなかったわけだ。」
守「でも最近、変化の兆しがあるよね!」
慧音「ああ。近年の研究の進展、そして2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』などを通して、世間の久秀像も少しずつ変わりつつあるように思う。近い将来、彼や長慶を主人公にしたドラマなんかが作られるようなこともあるかもしれないな。」
今回のまとめだ。
- 1565年、当主・三好義継や久秀嫡男の松永久通らが将軍・足利義輝を暗殺。久秀はその場にいなかったため、実行犯であるという通説は誤り。義輝の弟・義昭を一時庇護下に置く。
- その年のうちに、三好三人衆との主導権争いが始まる。当初は劣勢だったが、義継の寝返りにより持ち直す。1567年、三人衆との戦により東大寺大仏殿が焼失したが、失火の可能性が高く、久秀が能動的に放火した可能性は低い。
- 足利義栄を推す三人衆に対抗すべく、早くから義昭に接近。織田信長らと共に義昭の将軍就任に尽力。
- 1571年、義昭が宿敵・筒井順慶と同盟を結んだことへの不満などから、義継と共に離反。反義昭包囲網の一翼を担う。1573年、義昭が信長と決裂すると再び手を組むが、義昭の敗北に伴い信長に降伏。同年義継が自害し、三好宗家は滅亡。
- 織田家臣となるが、多聞山城の破却、順慶が大和支配を認められたことなどに不満を抱き、1577年、信長に対して謀反。同年10月10日、居城・信貴山城にて自害。享年70。爆死はしていない。
それじゃあ今回の講義はここまでだ!
ありがとうございました!
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
- 今谷明・天野忠幸監修『三好長慶』(宮帯出版社、2013年)
- 天野忠幸『松永久秀と下剋上』(平凡社、2018年)
- 久野雅司『足利義昭と織田信長』(戎光祥出版、2017年)