【三好長慶の生涯・前編】半沢○樹顔負けの復讐劇!【戦国人物録:File01】
上白沢慧音(以下:慧音)「このシリーズでは戦国時代の人物について紹介していくぞ。さて初回講義となる今回のテーマは、戦国武将・三好長慶(1522~1564)だ。」
大和守(以下:守)「この人、何をした武将なのかいまいち分からないんだよね…。教科書にも全然書いてないし。」
慧音「確かに、武田信玄や上杉謙信、毛利元就といった他の有力大名に比べて、三好長慶の知名度は高いとは言えないな。」
信○の野望でめちゃくちゃ能力高くて、初めてプレイした時ビックリしたよ。
そうやってすぐゲームを基準にするのはやめろ!…まあ、お前が歴史に興味を持ってくれたのもそのゲームがきっかけみたいだからな。学問の入り口としての価値は否定するまい。(注)
(注)かく言う筆者がそうでした。
守「大河ドラマ『麒麟がくる』も見てたけど、結局よく分からなかったなあ。力を持ってたのはなんとなく分かったけど、あんまり出番がないまますぐ死んじゃってたし。」
慧音「あの作品は最近の研究成果を盛り込んだ意欲作だと思うが、その辺りが少し説明不足かもな。最も、踏み込んで説明しすぎても話がこんがらがって視聴者が置いてきぼりになる可能性もあるから、匙加減が難しいんだけど…。まあこの講義が背景知識の補完に少しでも役立ったら幸いだ。」
それじゃあ三好長慶の生涯を見ていこうか。すごい人物だったということが分かると思うぞ。
お願いしまーす!
チャプター01:父・元長、討たれる!少年・千熊丸の運命は?
慧音「三好家は元々阿波国の豪族で、守護の細川氏に仕えていた。
応仁の乱後しばらくすると、室町幕府ナンバー2ポストである管領職は、その細川氏の本家である細川京兆家によって独占されるようになる。その中でも細川政元は明応の政変で将軍を交代させるなど、圧倒的な権力を誇っていた。そんな政元だが、1507(永正四)年に暗殺されてしまう。そして彼には実子がいなかった。というより、生涯独身だった。」
この時代の権力者で生涯独身なんて珍しいね。
修験道にハマってたらしい。
あー、宗教上の理由ね…。
慧音「その代わりとして、澄之、澄元、高国という3人の養子がいた。突然の死だったため、政元はこの時点で後継者を決めていなかった。さて、どうなると思う?」
守「後継者争いが起こる…?」
慧音「その通りだ。ここから畿内は、細川京兆家の家督争いを中心としたドロ沼の戦に突入していくことになる。その中で、長慶の父・三好元長は主君・細川晴元(澄元の子)を支えて活躍。一時は京都を制した高国との戦に勝利し、晴元を勝利に導いた。」
守「勝利の立役者ってことは、これで家中での地位も安泰?」
慧音「出る杭は打たれるものだ。力を持ち過ぎた元長は、当の晴元にも警戒されるようになる。
1532(享禄五)年に両者は決裂し、最終的には晴元の要請を受けた一向一揆の大軍が堺を襲い、元長は妻と長慶(当時は元服前で、千熊丸)を阿波へ逃がした後、自害して果てた。長慶11歳の時だ…。」
11歳でお父さんを失うって…。乱世とはいえ辛いね…。
だが、時代は彼が故郷で静かに父を偲ぶことすら許さなかった。
慧音「目的を果たしたはずの一向一揆は解散することなく暴走して戦を繰り返し、晴元や本願寺の門主・証如にも制御不能なものになっていく。翌1533(享禄六)年にようやく和睦するんだが、その仲介をしたのが当時12歳の長慶だった。」
守「えっ、子供がそんな大事な交渉できるものなの?!」
慧音「当然無理だろうな(笑)。名前を使っただけだろう。父を討たれた長慶が恨みを水に流す姿勢を見せることで、晴元と一揆勢双方の顔を立てた形になるわけだ。
この後長慶は三好家当主として再び晴元に仕えることになる。この時点で晴元の敵対勢力はほぼ壊滅している、ひとまず従うしかなかった。」
守「世知辛いね…。」
そういえば、この頃将軍って何してたの?幕府ナンバー2の家が揉めてるんだから、将軍が争いを鎮めなきゃいけないんじゃないの?
将軍にもうそんな力はないんだ。
慧音「明応の政変以来、将軍家は義稙(10代将軍)流と義澄(11代将軍)流、2つの系統に分かれて対立していた。元長と晴元が対立したきっかけも、晴元が義稙流から義澄流に乗り換えようとしたことなんだが…。詳しく説明すると長くなりすぎてしまうから、この辺りの説明はまた別の機会にさせてくれ。この講義はあくまで長慶が主役だからな。」
チャプター02:復讐の時来たる!倍返しだ!
慧音「元服して細川晴元に従っていた三好長慶(当初は利長、範長を名乗った)だったが、1539(天文八)年に河内国の荘園を巡って三好政長(宗三)、そして彼を支持する晴元と対立することになる。」
三好政長って誰?
三好一族だが、長慶の父・元長とは敵対していた。元長が晴元と対立した原因の一つに、この政長の讒言があったともされている。元長の死後は若い長慶に代わり、三好の代表であるかのように晴元に重用されていた。
まさに父の仇ってことだね。
慧音「この2人の争いは、将軍・足利義晴や近江の大名・六角定頼が仲介して収まり、長慶は摂津国越水城を与えられ、以降はこの摂津を基盤に勢力を拡大していくことになる。1542(天文十一)年には、晴元に対して反乱を起こした木沢長政討伐に参加している。」
六角定頼(1495~1552)
近江六角氏14代当主。細川高国・晴元や足利将軍家を支援し、しばしば三好氏と争う。中央情勢に介入する一方、織田信長に先駆けて領内に楽市制を導入するなど、六角氏を全盛期に導いた。
木沢長政(1493?~1542)
畠山氏(総州家)家臣。細川晴元に接近して権力を拡大、三好政長と結託して三好元長を自害に追い込む。法華一揆と一向一揆を潰し合わせる一方、長慶の力を利用すべく晴元との間を仲介するなど、権謀術数を駆使して主家を凌駕する実力者となるが、摂津塩川氏との関係を巡って幕府と敵対。細川・三好連合軍に敗れ討ち死にした。
守「ところで、三好家の本拠地ってそもそも阿波なんでしょ?そっちはどうしてたの?」
慧音「そっちは弟たちに任せていた。(注)」
- 長弟 三好実休(じっきゅう) :阿波
- 次弟 安宅(あたぎ)冬康 :淡路
- 三弟 十河一存(そごうかずまさ):讃岐
(注)もう一人野口冬長という弟がいるのですが、早くに亡くなったためほとんど事績が残っていません…。そのため本稿では説明を省いています。
あれ?一番上の弟、そんな一休さんみたいな名前じゃなくて、『義賢』って名前じゃなかったっけ?
一休さんはもう100年ぐらい前の人だろ!
慧音「『義賢』は後世誤って伝わった名前らしい。同時代の史料には『之相』『之虎』そして法名の『実休』という名前が見られるから、こっちが正解だ。因みに信長の野望シリーズ最新作(2021年現在)『信長の野望・大志』でも『三好実休』になっているはずだぞ。」
はえ~。やっぱり歴史の知識ってどんどん変わるんだね。
それが醍醐味でもあって難しい所でもあるな。100%の答えなんか出ない、永遠に終わりのない探求だ…。
慧音「さて解説に戻るぞ。1543(天文十二)年、かつて家督争いで細川晴元に敗れた高国の後継者として養子の細川氏綱が挙兵。氏綱方は畠山氏の重臣・遊佐(ゆさ)長教らに支援され、更には将軍義晴や当初晴元方だった六角定頼すら味方につけてしまう。」
細川氏綱(1513~1563)
細川典厩家出身で、高国の養子となる。遊佐長教や三好長慶に支援されて細川晴元を京都より追い、実質的な管領となる。従来全く実権を持たない長慶の傀儡とされてきたが、氏綱の奉行人が独自の文書を発給しているなど、近年ではある程度独自の権限を持っていたという評価もある。
遊佐長教(?~1551)
畠山氏(尾州家)家臣。河内国守護代として家中の実権を掌握し、天文3(1534)年に主君・畠山稙長を追放して弟の長経を擁立するなど、情勢に合わせて次々と主君をすげ替える。三好長慶に娘を嫁がせて手を結び、共に細川氏綱を支援して晴元を破るが、足利義輝の放った刺客に暗殺された。
慧音「晴元はこれに対して有効な手を打てず、ついに1546(天文十五)年には京都を奪われる失態を犯した。窮地の晴元方を救ったのが、長慶や実休、冬康の率いる三好軍だった。1547(天文十六)年7月、摂津舎利寺の戦いで氏綱・遊佐連合軍を撃破して京都を奪還。観念した氏綱方は和睦に応じるしかなかった。」
守「いまいち頼りない主君を支えて活躍する長慶の姿、何かお父さんと重なるね。」
慧音「だがこの一連の戦は、長慶の心中に確実な変化をもたらしていたようだ。晴元は結局、三好軍の助けがなければ何もできなかった。この頃長慶は、諱をこれまで名乗っていた『範長』から『長慶』に改める。三好家代々の『長』の字を上に持ってくることで、細川家から自立するという決意表明だったのかもしれないな。」
つ、ついに復讐の時が?!
そのチャンスはすぐに訪れた。
慧音「和睦が成った後の1548(天文十七)年5月、細川晴元は摂津の国人・池田信正を細川氏綱に味方したとして自害させてしまう。これに長慶はすぐに反応し、池田氏の家財や知行を横領しているとして、三好政長を成敗するように晴元へ訴え出て挙兵した。父の敵討ち=主君・晴元への下剋上ではなく、政長から国人を守るという大義名分に上手くすり替えたわけだな。結局晴元はこの訴えを黙殺、そればかりか政長へ援軍を送ってしまう。長慶と晴元の決裂は決定的なものとなった。」
慧音「長慶はかつて争った遊佐長教の娘を正室に迎え、氏綱方に与する。国人保護の大義名分を掲げる長慶の策は功を奏し、畿内近国の多くの国人が味方に駆け付けた。
1549(天文十八)年6月24日、長慶は弟・十河一存の軍と共に摂津江口城の政長軍を急襲してこれを壊滅させ、政長を討ち取った。政長軍敗北の知らせを受けた晴元は戦意を喪失。将軍父子を連れて京都を脱し、近江へ逃れた。これを受けて7月9日、長慶は氏綱を伴って入京、実質的に細川氏の支配を崩壊させ、自身の政治権力を打ち立てた。
長慶28歳。父・元長の死から17年の歳月が過ぎていた。」
勝ったッ!第3部完!
まだ終わりじゃないぞ!むしろこれが新たな戦いの始まりになるんだ…。
チャプター03:将軍・足利義輝との死闘!
慧音「京都で政治の実権を握った長慶に対し、徹底的に抵抗する男がいた。そう、室町幕府第13代将軍・足利義輝だ。」
守「ここで剣豪将軍が出てくるんだね。」
慧音「1550(天文十九)年、義輝は京都を追われた細川晴元や六角定頼と共同で京都奪還を目指して進出するが、三好軍に撃退されてしまう。だが義輝はめげず、翌年には刺客を送り込み、長慶の暗殺を試みた。手傷を負わせただけで未遂に終わったがな。」
あれ?『麒麟がくる』では、晴元が暗殺しようとしてなかったっけ?
史料では確認されていないな。まあ、義輝を悪者にしたくなかったんだろう。
慧音「1552(天文二十一)年、対三好主戦派だった六角定頼が亡くなり、跡を継いだ義賢(承禎)が方針を転換して調停役となり三好・足利の和睦が成立、義輝もいったん京都に戻った。多くの幕臣もこの和睦を支持していたようだ。
しかし翌年3月、義輝が一部の強硬派の意見に乗って京都近郊の霊山城で晴元と連携して挙兵、和睦はあっさり破綻。8月には霊山城が落城し、義輝は近江朽木に落ちていった。長慶が義輝についていく者の所領を没収すると脅したため、彼と共に朽木に向かったのはほんのわずかだったらしい。」
何か将軍、あんまり周りが見えてなくない?
長慶憎しの感情が先走り過ぎている気がするな。結果多くの家臣に見放されてしまった。
慧音「将軍を追放した長慶だったが、自身は京都にとどまらず摂津の芥川山城に入城し、越水城から本拠地を移した。長慶のもとに権利の安堵や訴訟を求める際には、京都ではなくここに来なければいけない。そうすることで自身の権威を示すとともに、公家や寺社など京都の権門から独立した政治運営を行っていくという狙いがあったようだ。
そして、義輝に代わって足利一族の別の者を将軍に据えようともしなかった。当初は擁立する計画もあったようだが、話がまとまらなかったらしいな。ともあれ、将軍家を上に立てない政治体制は、当時としては極めて異例のことだった。」
守「後に信長がそれをやったんだよね。」
慧音「一応、信長にも義昭の息子を擁立しようとした動きがあったらしいがな。ともあれ、ここから長慶は室町幕府の権威を克服する挑戦をしていくことになるんだが…そろそろ時間だな。」
まとめ
今回のまとめだ。
- 長慶の父・三好元長は、主君・細川晴元を支え、細川氏の家督争いを勝利に導いたが、後に晴元と対立。1532年、当時11歳の長慶を残し、自害に追い込まれてしまう。
- 長慶は晴元の家臣として力をつけ、1549年、父の仇・三好政長を討ち、晴元を京都から追放。京都の実権を握った。
- 将軍・足利義輝は長慶に対して徹底抗戦。1度は和睦するも1553年に再び挙兵、敗れて近江朽木へ落ち延びた。
- 長慶は京都に入らず、摂津・芥川山城を本拠と定め、京都権門から独立した政治運営を目指した。そして将軍を上に立てない、当時としては異例の政治体制を築こうとした。
よし、今回の講義はここまで!次回は長慶の後半生を見ていくぞ。
ありがとうございました!
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
- 長江正一『三好長慶』(吉川弘文館、1968年)
- 今谷明・天野忠幸監修『三好長慶』(宮帯出版社、2013年)
- 天野忠幸著『三好長慶』(ミネルヴァ書房、2014年)
後編の記事はこちら↓