【永禄の変】将軍・足利義輝、討たれる!【戦国事件録:File01】

上白沢慧音(以下・慧音):戦国時代の事件・できごとについて紹介していくこのシリーズ。初回講義となる今回のテーマは、1565(永禄八)年5月に発生した、永禄の変だ。

大和守(以下・守)当時の室町幕府将軍・足利義輝が暗殺された事件だよね。

足利義輝像(部分・国立歴史民俗博物館蔵。画像はWikipediaより)
慧音

ああ。武家の棟梁である征夷大将軍が、白昼堂々御所を襲撃され殺害された。まさに天下を揺るがす大事件だ。

一般的には松永久秀が犯人だったって言われることが多いけど、彼はやってないんでしょ?

慧音:久秀の回でも説明した通り、彼がやったというのは後世の創作で、実際はその場にいなかったとされているな。

↓該当記事はこちら↓

【松永久秀の生涯・後編】「悪人」の汚名を背負って。【戦国人物録:File04】
慧音

義輝はなぜ殺されなければならなかったのか…。複数の説が存在していて、現在でも決着を見ていない。今回はこの永禄の変について、事件の経過と動機の諸説について解説しよう。

お願いします!


チャプター01:事件に至るまで

1559(永禄二)年、近江朽木に逃れていた将軍・足利義輝は、京都を支配していた三好長慶と和睦。約5年ぶりに京都へ帰還した。義輝は早速、尾張の織田信長、美濃の斎藤高政(義龍)、越後の長尾景虎(上杉謙信)と相次いで謁見、諸国の大名間の調停を積極的に行うなど、幕府権力の復活を試みた

一方の長慶は、自らの嫡男である三好義興と重臣の松永久秀を幕臣として義輝の側に付け、政所執事の伊勢貞孝と結んで度々幕府の採決に介入。政治の主導権を握ろうとした。

義輝の京都帰還によってひとまず収まったかに見えた天下の情勢だったが、実際は幕府・三好間の静かな緊張をはらむものだった。

三好長慶像(部分・大徳寺聚光院蔵。画像はWikipediaより)

しかし盤石と思われた三好氏の政治体制に陰りが見え始める。

1561(永禄四)年以降、長慶の弟である十河一存及び三好実休、嫡男の義興と有力一門が次々と死没。政所支配のキーパーソンだった伊勢貞孝も、長慶や義輝と対立した末に討死した。1564(永禄七)年には長慶の残った弟である安宅冬康までも自害に追い込まれ、その直後に大黒柱の長慶自身も病でこの世を去った。三好氏の家督は、長慶の養子となっていた甥の三好義継が相続。

巨星・三好長慶の死によって、畿内に大きな動乱の影が忍び寄っていた…。

最後の煽り文とかかっこつけ過ぎでしょ。

↓三好長慶の生涯についてはこちら↓

【三好長慶の生涯・前編】半沢○樹顔負けの復讐劇!【戦国人物録:File01】

チャプター02:事件の概要

事件の舞台となった二条御所(武衛陣の御構え)跡(京都府京都市)。現在は平安女学院中学校の敷地。

慧音:1565(永禄八)年5月18日、三好氏当主・三好義継は清水寺参詣を名目として、重臣の松永久通三好長逸らを伴い、約1万の軍勢を率いて上洛。都の各所に布陣した。

この時の様子について、公卿が三好勢の陣中見舞いに訪れるなど、そこまで緊迫した雰囲気はなかったとする一方、義輝が難を逃れようと脱出を試みていたという史料も存在する。実際、義輝はこの年に新たな御所(武衛陣の御構え)を造営しているんだが、堀などを備えた要塞として整備されていたらしいから、彼が有事を想定した準備を行っていたのは確かなようだ。

そして翌5月19日午前、三好勢はついに御所への攻撃を開始した。

急度令申候、仍去十九日巳刻三好孫六郎、松永右衛門佐、公方様へ取懸申候処、奉公衆数刻戦申候、然共人々無之□時節候間、被御腹切候、同時ニ慶寿院殿・鹿苑院殿御生害候、其外奉公衆六十余打死候、前代未聞絶言語迄候、此儀去年冬志野原堺津へ罷上、阿州公方御入洛調段、御時刻候哉、上下共曽以無風聞候間、不慮出来候、(後略)

大意

早急に申し上げます。去る19日午前10時ごろ、三好孫六郎(義継)、松永右衛門佐(久通)が御所へ攻めかかり、奉公衆が数刻の間戦いましたが、人数も少なかったので、上様は切腹なされ、同時に慶寿院殿(義輝母)、鹿苑院殿(周暠。義輝弟)も殺害されました。そのほか奉公衆も60人余りが討死しました。前代未聞のことで言葉もありません。去年の冬篠原(長房。阿波三好家家老)が堺へやって来て、阿州公方(足利義栄)上洛の支度を整えており、その時が来たということでしょうか。みな全くそのようなことを聞いていなかったので、不慮の出来事でした。(後略)

梅仙軒霊超書状写
慧音

これは義輝の側近だった梅仙軒霊超という人物が、伊予の大名・河野通宣に宛てた、義輝殺害を伝える書状だ。

クーデターの発生だ!都は大混乱になるだろうね!

慧音:ところがそうでもないんだ。事件2日後の21日に長逸が御所へ参内、正親町天皇より酒を下賜された。翌22日には残った幕府の奉公衆や奉行衆も義継や久通の元へ挨拶に赴き、事態は沈静化に向かった。

守:あれ…?将軍暗殺って非常事態なのに、みんな随分あっさりしてない?

慧音:この頃の朝廷には武力がないから、京都を支配する勢力に表立って敵対することはしないんだ。そもそも、義輝は朝廷と疎遠だったという説もある。幕臣たちについても、三好勢へ対抗する力がないから、ひとまず頭を下げるしかなかったんだろうな。

なんか義輝が見捨てられたみたいで悲しいね…。

慧音

彼は幕府再興に力を尽くしていたが、道半ばだったからな…。結局幕府の権力基盤が未だ脆弱なものだったことが白日の下に晒される結果となってしまった。

守:ところで、史料に出てくる足利義栄(よしひで)が次の将軍になったんだよね?

慧音:そうだな。霊超は今回の事件を義栄擁立のためのものと疑っていたようだ。公卿の山科言継の日記にも同様のことが書かれているから、世間では三好氏が義栄を次の将軍に据えようとしているという見方が多かったと考えられる。だが、彼はなかなか将軍になることが出来なかった。

守:どうして?幕臣たちも表立って逆らえない状況だし、将軍就任を阻むものはなさそうだけど…。

慧音:松永久秀・久通父子と三好三人衆との間で対立が発生したんだ。

ことの始まりはこの年の7月28日。久秀が保護下に置いていた義輝の弟・一乗院覚慶(後の足利義昭)(注)が、細川藤孝ら一部の幕臣の支援により奈良を脱出した。

(注)覚慶は1566(永禄九)年に還俗して「義秋」、1568(永禄十一)年に「義昭」と改名しますが、ここでは便宜上「義昭」で統一します。

久秀が義昭を保護してたの?!何で?

慧音

その辺りは講義の後半で触れるから、ひとまず置いておこう。

慧音:義昭は亡き将軍の実弟なわけだから、次期将軍としての血統は申し分ない。周辺諸国にとっては戦の大義名分として担ぎだすのにうってつけの人物で、三好氏にとっては危険極まりない存在だ。そんな義昭をみすみす逃がしてしまったのは、久秀にとって大きな失策だった。

そして、その直後の8月2日。三好家臣として丹波を統治していた久秀の弟・内藤宗勝(松永長頼)が、同国の国人・荻野(赤井)直正に討たれ、三好氏は丹波を失うことになった。

守:何かやらかしが重なっちゃったね…。

慧音:11月15日、これらの失態の責任を追及する形で、三好三人衆の率いる軍勢が当主・義継の居城である飯盛山城に乗り込み、松永父子の罷免を迫った。これを契機として、畿内は松永対三人衆の泥沼の抗争に突入していくことになる…。


逸話の検証ー義輝最期の奮戦についてー

慧音:さて、この永禄の変で有名な話が、将軍・義輝の奮戦ぶりだ。

守:何本もの名刀を床に突き立てて、三好の兵を次々と切り伏せ、刀を取り替えながら戦ったってやつだよね。かっこいいよね!さすが「剣豪将軍」

慧音:確かに同時期の史料にも、義輝が薙刀や刀を振るって激しく戦ったという記述が存在する。しかしながら、「名刀を取り替えながら戦った」という内容は、軍記物語にしか出てこない。古いものだとこれだな。

公方様御前に利剣をあまた立てられ度々とりかへ切崩させ給ふ。御勢に恐怖して近付申す者なし。(中略)三好方池田丹後守こさかしきやからにて戸の脇にかくれて御足をなきてけれはころひ給ふ上に障子を倒かけ奉り上より鑓にて突奉る。

大意

公方様は御前に剣を数多立て、度々取り替えながら敵を切り崩した。その勢いに恐怖し、近づくものはいなかった。(中略)三好方の池田丹後守は小賢しい輩で、戸の脇に隠れて公方様の足を払い、転んだ上に障子を倒しかけ、上から槍で突いた。

『足利季世記』

慧音:…というわけで、残念ながら後世の創作だろうな。

松永久秀の回でも思ったけどさぁ、一般的に語られてる話が否定されてばっかりだよね。久秀が悪人じゃなかったり、爆死してなかったり。今回の、義輝が名刀を取り替えながら無双した話もそうだよ。どんどんロマンが薄れていくというか…。

慧音:歴史にロマンを求める気持ちはよく分かる。でも、そういう話は結局面白おかしく創作・脚色されたものでしかないんだ。軍記・講談や小説と実際の歴史は違う。それぞれ分けて楽しめばいいと思うぞ。

慧音

まぁそのうち、「こんな新しい説があるんだ!」っていう通説の否定にも快感や楽しみを見出せるようになるさ…。

そんなもんかなぁ…?


チャプター03:事件の動機ー義輝はなぜ殺されたのか?ー

慧音

ここからは、事件の動機について考察していこう。なぜ義輝は殺されなければならなかったのか…。ここでは3つの説を紹介していくぞ。

説①:将軍を交代させようとした

慧音:1番メジャーなのがこの説。意のままにならない義輝を亡き者にし、他の者にすげ替えようとした、というものだな。三好方はこの時点で誰を擁立しようとしていたのか、ここでも候補者が2名存在する。

候補1:足利義栄

慧音:候補の1人目が足利義栄。義輝の従兄弟にあたる。変の3年後、彼が第14代将軍に就任したわけだから、最終結果としてはここに行き着いたということになる。

守:さっきの史料にも出てきた人物だね。ところで『阿州公方』ってことは、彼は阿波にいたってこと?

慧音:義栄の父・義維(よしつな)は、かつて兄の12代将軍・義晴(義輝・義昭の父)と将軍位を巡って争った人物だ。一時は「堺公方」と呼ばれ、義晴を近江へ追い落として京都を支配していた時期もある。

将軍家略系図(筆者作成)。なお永禄の変当時義維も健在だったが、
高齢に加えて病を患っていたため、子の義栄が将軍後継者になった。

この堺公方体制を有力者として支えていたのが、長慶の父・三好元長だった。だが1532(享禄五)年、共に義維を支えていた元長の主君・細川晴元が義維を見捨てて義晴と和睦しようとしたため、元長・晴元間で対立が発生。結局元長は敗れて自害に追い込まれ、後見人を失った義維は阿波に逃亡、以降30年以上に渡って亡命生活を余儀なくされていた。

三好元長像(見性寺蔵。画像はWikipediaより)

守:っていうことは、三好氏は元々義維の家系を支持してたってこと?

慧音:そういうことになる。だから長慶の代になって義輝と和睦したのは、三好氏にとって大きな方針転換だったわけだ。でも義維だって健在なわけだから、義稙流(義維の養父・義稙の名より)義澄流(義晴の父・義澄の名より)、この2家系の将軍位を巡る対立の火種は残されたままだった。

三好氏の勢力が盤石だったころは問題にならなかったが、その力が衰え、義輝が存在感を高めていく状況で、三好側にこの「2つの将軍」という課題に対処する余力がなくなった結果、義輝殺害という実力行使でもって強引な課題解決が図られた

これが、義栄擁立説の骨子だな。

もっともらしい説だね。

慧音

だけどこの説にも穴があるんだ。

候補2:足利義昭

慧音:時期将軍候補であるはずの義栄が阿波から摂津に渡海してきたのは、1566(永禄九)年9月。変から1年以上も経ってのことだ。

守:ずいぶん遅くない?

慧音:ああ。松永方と三好三人衆の抗争が始まっていたことを差し引いても遅い気がするな。だから、義栄は候補として考えられてなかったんじゃないかという主張がある。そもそも、義維が将軍位争いに敗れてからもう30年以上が経過している。義稙流はもはや将軍継承の正当性が薄れているという見方もできるわけだ。

ここで登場するのが第2の候補。義輝の弟・足利義昭だ。彼は当時、僧侶として大和の興福寺一乗院にいた。事件を受け、同じく大和にいた松永久秀が、誓紙を出して身の安全を保証したんだ。

月岡芳年『武者无類外ニ三枚続キ画帖』(1883)より「芳年武者无類 弾正忠松永久秀」(国立国会図書館蔵、画像は同デジタルコレクションより)

守:義継たちは義輝の弟(周暠)を殺害してたよね?何か温度差がない?

慧音:そうだな。三好氏の方針が義栄擁立だったとするならば、久秀のこの行動は明らかに矛盾している。少なくとも久秀は、義継たちとは別の思惑を持っていたんだろうな。

守:久秀は何を考えていたんだろう?

慧音:正直はっきりしていない。1つ考えられるのは、幕府に対する考え方の違いだ。御供衆として義輝との交渉窓口に立っていた久秀と、そうではない義継や三好三人衆、阿波三好家とはそのスタンスがだいぶ違っただろう。彼は、安易な義稙流への回帰を良しとしなかった。「義昭を擁立しようとしていた」とまでは言い切れないが、いざという時に備えて、義昭という選択肢を残しておきたいと考えたんじゃないかな?

三好も1枚岩じゃなかったってことだね。

慧音

久秀と三人衆の対立の原因が、こうした政権構想の違いだったと考えることもできるだろうな。

守:久秀・久通親子の間でも意見が食い違ってるよね。

慧音:そこも興味深い点だ。いずれにせよまだ未解明の点も多いから、今後の研究を待ちたいところだな。


説➁:幕府を打倒し、自ら将軍に成り代わろうとした

慧音

この説は史料的裏付けに乏しく、正直信ぴょう性が薄いんだが、個人的に面白いと思ったので紹介しよう。義継たちが、室町幕府そのものを打倒しようとしていたというものだ。

と、倒幕?!大きく出たね…。これまで先生が何度か言ってきたけど、そもそも多くの武士は幕府の権威を尊重してたんでしょ?そんな事やろうとしたら周りの大名から袋叩きにされそうだけど…。

慧音:そうだな。わざわざ戦の大義名分を与えるようなものだ。でも、義継にはそれが出来てしまうという万能感があったのかもしれない。彼が生まれたのは、1549(天文十八)年。養父・長慶が細川晴元や将軍父子を追い落とし、京の実権を握った、まさにその年だ。この後長慶は畿内近国を次々と平らげ、天下人への階段を駆け上がっていく。

…義継は、そんな栄華を極めた三好氏の姿しか知らなかったんだ。

守:そっか、長慶が昔ずっと苦労してきたっていう実感がないんだ。

慧音:更に、義継は十河氏から突然養子として連れてこられたという立場上、幕府のこともよく分からない。…御相伴衆として義輝の側仕えをしていた、亡き義兄・義興とは違って。

守:そうだよね…。宗家を継ぐなんて降ってわいたような話だったはず。

慧音:倒幕を考えていたという根拠を1つ挙げよう。

御所を襲撃した三好軍の中に、清原枝賢(しげかた)という儒学者がいた。戦力にならない儒学者をどうして連れてきたのか?足利に成り代わって三好が天下を治める、『易姓革命』であることを宣伝するためと考えられるわけだ。

守:易姓革命…!

INFO

易姓(えきせい)革命

中国古来の革命観で、王朝交代を説明する理論。天子の徳が衰えた場合は、天がその「命を革(あらた)めて」「別の姓を持つ有徳者に易(か)えて」治めさせるというもので、新しい王朝の成立を根拠づける伝統的政治思想となった。

旺文社『世界史事典』より

慧音:義継の決意は、その名前にも表れている。

そもそも変の直前、彼は義輝から将軍家の通字である「義」の字を拝領し「義重」と名乗っていた。そして義輝を討った後、「義継」と名を改めたんだ。…この意味が分かるか?

守:「義」を「継」ぐ…!

慧音:そう。これは武家の棟梁の地位を自らが継承するという意思表示に他ならない!

もし義継の近くに松永久秀がいたなら、間違いなく止めただろう。彼は長慶の右腕として長年苦労を分かち、そして共に幕臣に取り立てられた義興を支えてきたんだ。そんな無鉄砲を許すはずがない。しかしその久秀は家督を譲り、大和に引っ込んでしまった。後を継いだのは久通。当時23歳の若武者だ。

17歳の若き当主・義継とそれを支える久通。恐れを知らない次世代のリーダーたちは、途方もなく大きな野望に向けて動き出そうとしていた…!

…あのー、先生?盛り上がってるところ悪いんだけどさぁ、これこそロマンでは…?

慧音

…ハッ!…すまん、守の言うとおりだ。つい熱くなってしまった…。

慧音:始めに言った通り、この説は特段史料による裏付けがあるわけでもなく、今挙げたような傍証があるくらいだ。

そもそも軍勢の中に、三好長逸もいる。彼も一門の長老格として長年宗家を支えてきた、経験豊富な武将だ。そんな無謀な計画を止めないはずはないだろう。

そういうわけで、これは有力な説とは言い難いな。


説③:そもそも義輝を殺すつもりはなかった

慧音

近年唱えられ始めているのがこの説だ。

こ、「殺すつもりはなかった」って、一体どういうこと?!

慧音:この時の三好方の目的が、将軍殺害ではなく「御所巻(ごしょまき)」だった可能性があるんだ。

守:御所巻って何?

慧音:幕府に対して不服のある大名が将軍の御所を軍勢で包囲し、自らの要求を押し通そうとした行為のことだ。

御所を軍勢で包囲するって、はた目には謀反にしか見えないけど…。

慧音

あくまで要求だから、相手の討伐や追放を目的とした謀反とは性質が異なる。ただ無茶な方法なのは間違いないな。

慧音:過去、御所巻は度々行われてきた。有名なのが1349(貞和五)年、将軍家の執事・高師直(こうのもろなお)が、自らと敵対する将軍の弟・足利直義(ただよし)の追放を求め、将軍である足利尊氏の屋敷を包囲したものだ。

騎馬武者像(部分・京都国立博物館蔵。画像はWikipediaより)。従来足利尊氏の肖像画とされてきたが、近年高師直かその縁者のものであるという説が出されている。

また御所巻とは違うが、さっき触れた三好三人衆の軍勢が飯盛山城に乗り込んだ行為も、似た性質を持っていると言えるかもな。

守:この時の三好方の要求は何だったんだろう?

慧音:一説には、自らに敵対的な将軍側近の排除だったとされているな。イエズス会宣教師のルイス・フロイスは、そのように書き残している。

他に、足利義栄を登用することを要求していたという、先に挙げた説①と複合させるような説もある。

守:で、要求が何であったにせよ、義輝はそれを拒否した、と…。

慧音:ああ。フロイスの記述によれば、三好方の要求には義輝の妻の成敗など、義輝が到底飲めないものが含まれていたそうだ。

最終的に交渉窓口だった義輝側近の進士晴舎(しんじはるいえ)が自害したことで、それを手切れとみなした三好方が攻撃を開始したといわれているな。

守:「殺すつもりはなかった」とは言うけど、無理な要求を突き付けていたり、最悪殺すことも覚悟の上だったのかな?

慧音:それどころか、やっぱり最初から義輝を討つつもりで、御所巻はカモフラージュだったという説も出されているな。

うわぁ、何だか訳が分からなくなってきた…。

慧音

出されて日が浅い説ということもあって、歴史家の間でも見解がかなり分かれている。現時点で結論を出すのは難しいだろうな。


おわりに

慧音:…以上が事件の解説だ。

守:今までのイメージでは「剣豪将軍・足利義輝が、梟雄・松永久秀に暗殺された」みたいな感じだったけど、随分変わって来てるんだね!動機として色んな説も出てきてるし。

慧音:研究が進んできた結果だな。まだまだ分かっていない部分も多いから、10年後には全く新しい説が提唱されているかもしれない。今後も要チェックだな。

慧音

それじゃあ、今回の講義はここまでだ。

ありがとうございました!

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

主要参考文献

  • 山田康弘編『戦国期足利将軍研究の最前線』(山川出版社、2020年)
  • 天野忠幸『松永久秀と下剋上』(平凡社、2018年)
  • 木下昌規編『足利義輝』(戎光祥出版、2018年)