【松永久秀の生涯・前編】「乱世の梟雄」は虚構だった?【戦国人物録:File03】

2021年6月21日

上白沢慧音(以下:慧音)「戦国時代の人物について紹介していくこのシリーズ。今回のテーマは、戦国武将・松永久秀(1508~1577)だ。

おお!ボンバーマン!爆弾正!ギリワン(注)

(注)ゲーム「信長の野望」シリーズに登場する松永久秀は、優秀ですが非常に裏切りやすい武将となっています。ギリワンとは彼のゲーム内の「義理」というパラメータが最低値の1に設定されていることに因むもの。ただし2021年現在の最新作「信長の野望・大志」では、近年の研究を反映してか、歴史イベントでの人物像に大幅な変更が加えられています。

慧音

お前なあ…。まあ、世間一般の認識はそうだな。この人物は、並み居る戦国武将の中でもとりわけダーティなイメージが付きまとう人物と言える。それを象徴しているのがこの逸話だ。

東照宮、信長に御対面の時、松永弾正久秀かたへにあり。信長、「この老翁は世人のなしがたき事三つなしたる者なり。将軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚たる松永と申者なり」と申されしに、松永汗をながして赤面せり。(後略)

大意:
徳川家康が織田信長に対面した際、松永久秀が脇に控えていた。信長は、「この老人は世間の人間が出来ないようなことを三つも成し遂げた男だ将軍を殺し、また己の主君である三好を殺し奈良の大仏殿を焼いた松永という男だ」と言い、久秀は汗を流して赤面した。

『常山紀談』

大和守(以下:守)「この話なら知ってるよ。久秀が3つの悪事を働いたって話だよね。

  • 室町幕府第13代将軍・足利義輝の暗殺
  • 主君・三好氏への下剋上
  • 東大寺大仏殿を焼き払う

これ全部やっちゃうとか、やっぱり相当のワルだよね。まさに『乱世の梟雄』

慧音「じゃあここで、お前に彼を描いた2つの絵を見てもらおう。まずはこれだ。明治時代に描かれた浮世絵だな。

月岡芳年『武者无類外ニ三枚続キ画帖』(1883)より「芳年武者无類 弾正忠松永久秀」(国立国会図書館蔵、画像は同デジタルコレクションより)

守「そうそう、久秀ってこんなイメージだよね。

慧音

じゃあ次はこっちだ。最近発見された久秀のものとされる肖像画だぞ。

松永久秀像(高槻市しろあと歴史館蔵、画像は産経ニュースより)
「戦国武将 松永久秀の肖像画を発見 出っ歯だった? 悪人イメージ覆すか」URL:https://www.sankei.com/west/news/200304/wst2003040024-n1.html

何だこのオッサン!? (驚愕)全然イメージと違う…。

慧音「近年の研究により、松永久秀について全く異なる人物像が提示されつつある。そもそもさっきのエピソードも江戸時代中期の本が出典で、そのまま鵜呑みにしていいものじゃないんだ。

守「そういえば、大河ドラマ『麒麟がくる』でも吉田鋼太郎さんが豪快に演じていたけど、悪人って感じの描かれ方じゃなかったよね。

慧音「あの作品の久秀は、それらの研究成果を反映したキャラクターになっているな。

慧音

じゃあ、本当はどんな人物だったのか?その生涯を追いながら迫っていくことにしよう。

お願いしまーす!

チャプター01:久秀、歴史の表舞台に登場す

慧音「松永久秀が生まれたのは、1508(永正五)年。出身地については諸説あって現在でも確定していない。阿波国、山城国西岡、摂津国五百住(よすみ)などが候補として挙げられているが、傍証の多さから五百住が有力と考えられているようだ。両親の出自についても不明だが、母親は1568(永禄十一)年に83歳で亡くなった記録がある。弟に松永長頼(内藤宗勝)がいる。彼も優れた武勇で三好家を支えた。

守「分からないこと尽くめだね…。

慧音「久秀の主君となる三好長慶は、幼少期から苦労を重ねた人物だった。父の三好元長は、細川家の家督争いで主君の細川晴元を勝利に導くなど力を発揮していた。だがその力を警戒した晴元や一族の三好政長らに追い落とされ、自害に追い込まれてしまう。この時長慶11歳。その後は三好家を継ぎ、再び晴元に仕えることを余儀なくされていた。

↓三好長慶の生涯についてはこちらの記事をチェック↓

PERSON

三好政長(宗三)(?~1549)

三好一族。宗家当主の三好元長と対立し、木沢長政らと結託して元長を自害に追い込む。細川晴元の寵臣として権勢を振るうが、摂津の国人などを味方に引き入れて挙兵した長慶軍に敗れ、討死した。

PERSON

細川晴元(1514~1563)

細川澄元の子。三好元長らに支えられ細川京兆家の家督争いに勝利、事実上の管領となる。自らに叛いた摂津の国人・池田信正を自害させたことで、元長の子・長慶の離反を招く。長慶軍の前に三好政長ら多くの家臣を失い敗北、将軍父子を連れて京都から逃れた。以後も抗戦を続けるが、往時の勢力を取り戻すには至らなかった。

慧音「久秀が長慶に仕官した時期もよく分かっていない。1540(天文九)年、長慶が領内の寺院へ土地(田)を寄進するという書状の担当者に彼の名前が見られる。これが、現在分かっている限りで最初の記録だ。この時久秀33歳。

少し遅咲きな気がするね。

慧音「長慶は所領の摂津国を地盤として力をつけながら、雌伏の時を過ごした。そんな彼にチャンスが訪れる。

1548(天文十七)年、摂津の国人・池田信正が自害に追い込まれるという事件が起こる。これを受けて、長慶は事件の首謀者として三好政長を処罰するよう晴元に訴え出て挙兵した。政長を重用していた晴元がこれを拒否したことで両者は決裂。

結局、翌1549(天文十八)年6月24日、摂津江口で長慶軍が政長を討ち取って勝利を収め、晴元は将軍親子を連れて京都から逃亡した。長慶は晴元と敵対していた一族の細川氏綱を擁立して入京、独自の政治体制を確立した。

PERSON

細川氏綱(1513~1563)

細川典厩家出身で、細川高国の養子となる。遊佐(ゆさ)長教や三好長慶に支援されて細川晴元を京都より追い、実質的な管領となる。従来全く実権を持たない長慶の傀儡とされてきたが、氏綱の奉行人が独自の文書を発給しているなど、近年ではある程度独自の権限を持っていたという評価もある。

ついにお父さんの仇を討ったんだね。ところで、この時の長慶って何歳くらいだったの?

慧音

28歳だな。

え、そんなに若かったの?!『麒麟がくる』では65歳(当時)の山路和弘さんが演じてたけど…。

慧音

…大河ドラマの登場人物と役者の年齢を比べてはいけない。鉄則だぞ。

慧音「京都を追われた室町幕府第13代将軍・足利義輝は、晴元と連携しながら三好氏に対して徹底抗戦する。

1551(天文二十)年7月、晴元配下の三好宗渭(そうい。政長の子)香西(こうざい)元成が京都に攻め込んだが、松永久秀・長頼兄弟が4万の兵を率いてこれを相国寺で破っている。彼ら兄弟が大軍を率いる能力があったこと、そして既にその地位にあったことが分かるな。

この後長頼は、1553(天文二十二)年に討死した丹波守護代・内藤国貞の跡を継ぎ、『内藤宗勝(そうしょう)』と改名。丹波の支配を任された

足利義輝像(部分・国立歴史民俗博物館蔵。画像はWikipediaより)
PERSON

三好宗渭(政勝)(1528~1569)

三好政長の子。父の跡を継いで長慶と戦うが、1558(永禄元)年に降伏。後に家中での権力を増大させ、「三好三人衆」の一人に数えられる。織田信長率いる上洛軍と戦うが、翌年に阿波で没した。近年の研究により、「政康」という諱は誤りで、弟・為三(いさん)のものと考えられてきた「政勝」が彼の諱であることが分かっている。また、大坂の陣で豊臣方の一員として戦ったという説も事実ではない(為三もしくはその子が徳川方の旗本として参陣しているため、これと混同されたものと考えられる)。

慧音「一方の久秀は軍事面のみならず、内政面でも重きをなしていく。

畿内最大の実力者となった長慶の元には、多くの訴訟が持ち込まれるようになった。それに関連した史料から、彼は長慶の「内証」(真意)を常に確認でき、「給人衆の帳」(家臣の知行を記した帳面)を管理する立場だったことが分かっている。この時点で既に、彼は三好長逸(ながやす)と並ぶ長慶家臣団の筆頭と言える地位にまで昇進を遂げていた。

PERSON

三好長逸(生没年不詳)

三好一族の重鎮として早くから長慶を支え、「三好三人衆」の筆頭に数えられる。長慶死後は松永久秀と対立、結果として三好氏の弱体化を招く。京都失陥後も反信長陣営の一員として転戦を続けるが、1573(天正元)年、摂津中嶋城の戦いで敗北したのを最後に消息不明となった。

大出世だね!外様で仕官年数もそこまで長くない久秀が何でここまで急激に出世したの?

慧音

もちろん彼が優秀だったからだろうが、それだけじゃない。

慧音「長慶の父・元長が自害した時、譜代の重臣たちも多くが彼と命運を共にした。のみならず、四国方面を任せる長慶の弟たち(三好実休(じっきゅう)安宅(あたぎ)冬康十河一存(そごうかずまさ))にも家臣を割かなければいけない。新たな家臣団を編成するため、久秀のような畿内出身の家臣を登用する必要があったんだ。

守「勢力も急拡大して、ただでさえ人手不足になりそうだもんね。

慧音「やはり激務だったのだろうか、1552(天文二十一)年、久秀は当代随一の名医と謳われた曲直瀬(まなせ)道三から、養生のため『黄素妙論』という書物を譲り受けている。

どんな本なの?

慧音

…性の指南書、いわゆるハウツー本だ。

…それって養生になるのかな?精力はつきそうだけど…。

『黄素妙論』見開き(国立国会図書館蔵。画像は同デジタルコレクションより。)BANされかねないため内容については触れません。

チャプター02:長慶の腹心として

慧音「1558(永禄元)年末、三好氏と将軍・足利義輝の間で和睦が成立。義輝は約5年ぶりに京都へ戻った。ここから長慶の政治体制は名目上将軍を上に立てたものになるわけだが、この状況下で久秀の存在はますます重要なものになっていく。翌年以降、三好氏の人間に次々と栄典が付与されることになるんだが、ここで久秀は主君に匹敵する待遇を受けている。

  • 1560(永禄三)年2月:長慶嫡男・三好義興と共に幕府の役職・御供衆に就任(義興は翌年御相伴衆に昇進)
  • 同月:朝廷より弾正少弼の官位を与えられる
  • 1561(永禄四)年1月:義興と共に従四位下に叙せられる(長慶・三好長逸に次ぐ速さ)
  • 同2月:長慶、義興、久秀に桐紋下賜、塗輿の使用免許(注)

(注)塗輿は足利将軍家や管領家など、武家の中でもごく限られた者しか乗ることを許されませんでした。桶狭間の戦いの時に今川義元が輿に乗っていたのも、彼が公家かぶれだったからではなく、将軍家に連なる名門である今川氏の権威を示すためのものだったのです。

桐紋(画像は五三桐。Wikipediaより)。現在も日本政府が使用する、政権担当者を象徴する紋と言える。

何で外様の久秀が三好一門と同格の待遇になるの?やっぱり下剋上しようとしてたんじゃ…。

慧音

久秀の出世は、幕臣としての箔付けの意味合いがあるんじゃないかと思う。

慧音「この後長慶は家督を義興に譲り、幕府との関係構築を任せていく。義輝と遺恨のある自分が表に立たないことで無用な諍いを避ける狙いがあったと思われるが、まだ若い義興だけでは流石に心許ない。

そこでサポートのため、自らの右腕である久秀を共に取り立てさせた。そうなると、幕臣としてそれなりの官職がないと恰好がつかない。久秀本人ではなく、あくまで長慶の意向に沿った人事と見るべきだろうな。

守「幕臣ってのは建前で、あくまで三好家臣だったってことだね。

慧音「ところが一概に建前とも言い切れないんだ。1561年3月、諸々の栄典付与への返礼のため、義興の屋敷に義輝を招いての御成(主君への接待)が行われた。御成には太刀や具足の進上、その後の宴席など色々な手順があるんだが、この時の久秀は三好家臣としての動きと幕臣としての動き、両方を行っている

他にも義輝の発給した文書に義興・久秀が共に副状(そえじょう。家臣による添付文書)様の文書を送るなど、彼の御供衆としての立場は単なる名誉職ではなく、それなりに実態の伴ったものだったようだ。

三好家臣でありながら将軍の家臣でもある、何か明智光秀に似てるかも…。

慧音

ちょうど彼の立ち位置に似てるかもしれないな。光秀も幕臣として働きながら、織田家臣として所領を与えられている。

守「それにしても、出自の低かった久秀が幕府の要職にまで取り立てられるのは、まさに戦国乱世って感じがするよね。

慧音「実際彼の出世は、他の武士たちにも異様なものに映ったらしい。この頃、相模の大名・北条氏康が武蔵の国人・太田資正に宛てた起請文に、久秀の御供衆就任について『国家を治めるためにはやむを得ないことだ』と言及している。

久秀や長慶・義興の家格を無視した昇進は、旧来の価値観を重んじる多くの武士の反発を招くものだった

慧音

慧音「幕府・三好間の懸け橋という役割を果たす一方、三好家臣として久秀が担当した一大プロジェクトが、1559(永禄二)年に始まった大和侵攻だ。」

慧音「1558(永禄元)年、河内守護畠山氏の実権を握っていた重臣・安見宗房と当主・畠山高政の対立が表面化、高政が居城・高屋城から追放される事件が起こる。また、宗房は大和の有力国人だった筒井順慶を支援し、大和にも勢力を伸ばしていた。畠山氏は三好氏にとって、細川晴元との戦い以来の重要な同盟相手。この状況を受け、翌1559(永禄二)年、長慶は軍を率いて宗房を破り、高政を河内に復帰させる一方、久秀に軍を預けて筒井氏の本拠・筒井城を攻略させた

かつて都が置かれた大和国は、興福寺東大寺をはじめとした仏教勢力の力が非常に強く、歴代の武家政権が守護を置くことすら出来なかった、非常に統治の難しい地だ。後の天下人・豊臣秀吉も、最も信を置く弟の秀長に大和を任せた。その地の攻略を任された久秀が、いかに長慶から信頼されていたかが分かる。

関係図(1559年時点・筆者作成。)

慧音「情勢は安定したかに見えたが、三好氏の影響下に入ることを嫌った高政が翌1560(永禄三)年に宗房と和睦し、三好氏と敵対。この時は三好勢に敗れて高屋城から追われるが、この後も軍を集めて反撃に転じるなど、大きな障壁として立ちはだかることになる。

PERSON

畠山高政(1527~1576)

河内・紀伊守護。守護代・遊佐長教の死後、家督を継ぐ。重臣の安見宗房と対立するが、後に和解して三好氏と争う。1562(永禄五)年、和泉久米田の戦いで長慶の三好実休を討ち取り高屋城を奪還するが、教興寺の戦いで敗れ河内を失う。永禄の変後は足利義昭を支援し、弟・秋高に家督を譲った。

PERSON

安見宗房(生没年不詳)

大和の国人・越智氏の被官から畠山家臣になったとされる。遊佐長教の死後、政敵を排除して家中の実権を掌握。1558(永禄元)年、不和になった主君・畠山高政を追放するが、それにより三好勢の侵攻を招く。2年後に高政と和睦し、共に三好勢と戦った。永禄の変後は足利義昭の擁立に動き、幕府奉公衆に取り立てられた。

PERSON

筒井順慶(1549~1584)

筒井氏は興福寺一条院の衆徒(しゅと。大和における武士団の一種)が大名化したもの。父の早世により、わずか2歳で家督を継ぐ。大和の支配を巡って松永久秀と争う。後に織田信長に臣従し、大和支配を認められた。明智光秀の与力となるが、山崎の戦いの際は加勢せず中立を保った。一般的な知名度のある武将ではないが、「元の木阿弥」「洞ヶ峠」と、彼に関係した故事成語が2つも残っている。

筒井順慶像(伝香寺蔵。画像はWikipediaより)

慧音「この間久秀は京や河内を転戦しつつも大和攻略を進め、1561(永禄四)年には奈良の街の支配へ乗り出し、新たな城の築城を開始。翌1562(永禄五)年には大和を概ね平定し、その年の8月、多聞山城の棟上げが行われた。城には巨大な「四階櫓」がそびえ立ち、当時の宣教師アルメイダの記録にも「日本中で最良最美の城の一つ」と驚嘆をもって記されている。

奈良の街中にあったんだね。

慧音「これまで大和を支配してきた武将たちも、後に大和を治めた豊臣秀長も、奈良に城を構えることはなかった。興福寺などを刺激しないためだ。しかし久秀はそれら大寺院を威圧するように、あえて奈良の街を睨む位置に城を築いた。自らが大和の新たな支配者であると誇示する、彼の豪胆さが伺えるな。

チャプター03:『世人のなしがたき事』の再検討~①主君への反逆~

慧音

ここからは、冒頭で紹介した久秀の3つの悪事について1つずつ再検討していこう。1つ目は、彼が下剋上のため有力な三好一族を死に追いやったという話だ。

(1)十河一存の死

慧音「1561(永禄四)年4月、三好長慶の三弟・十河一存が病死した。一存は三好政長を討った江口の戦いで軍功を挙げるなど、『鬼十河』の異名をとった猛将だった。享年は恐らく30歳前後。

当時としても若死にの部類になるが、彼の死に久秀が関わっているという俗説がある。参考として、軍記物語の記述を1つ引用しよう。

永禄三年十二月、十河民部大輔一存と松永と其中あしく、常に不快を現しける。其比十河殿瘡を煩ひ、有馬温泉え湯治ありける。松永申しけるは「有馬温泉権現はあしけ馬を御とかめある神也。此御馬無用。」と申す。然れとも十河殿松永か申ことを用不給。松永又十河殿の宣ふ事を背ける事なれは、十河殿是を聞たまはす。葦毛馬に乗り湯治して登山ありけるか、如案落馬ありて忽ち死去ありけるこそ不思議なれ。運命盡とは言ひなからあへなき事ともなり。

大意

1560(永禄三)年12月(※没年の誤りが発生している)、十河一存と松永久秀は不仲で、常に不快をあらわにしていた。そのころ一存は瘡を患い、有馬温泉へ湯治に向かった。久秀は「有馬温泉権現は葦毛の馬を嫌うので、乗らない方がよろしいでしょう。」と忠告した。しかし一存は久秀の忠告を聞かなかった。久秀は一存の言うことに従わないことがあったので、一存も彼の言うことを聞かなかったのである。(一存は)葦毛の馬に乗って山を登っていたが、落馬して死去してしまった。運命が尽きたとは言いながらも、あえない最期となった。

『足利季世記』

慧音「この逸話では、一存の死因が落馬になっているな。その死については『運命が尽きた』と評価している。久秀が直接かかわったという記述はないが、わざわざ彼を登場させたということは、関与が疑われていたという傍証にはなるかもな。

でも年月すら間違ってるよね?これ…。

慧音

そう、信ぴょう性が高いとは言えないな。そもそも軍記の中ですら殺したとは書いていない。久秀が一存を暗殺したというのは、作り話と断じて良いだろうな。

(2)三好義興の死

三好義興像・模本(部分・京都大学総合博物館蔵。画像はWikipediaより)

慧音「1563(永禄六)年、長慶の嫡男にして当時家督を相続していた三好義興が病に倒れた。彼はさっき説明した通り、御相伴衆として幕府との橋渡し役を担っていたほか、この前年に起こった教興寺の戦いでは総大将として畠山勢を打ち破るなど、若年ながら文武に優れた武将だった。

寺社の祈祷や曲直瀬道三による診療も行われたが甲斐なく、8月25日、22歳で死去した。

慧音

この死が久秀による毒殺だ、というのが後世広まっている説だな。こちらも参考として、軍記物語の記述を1つ引用しておく。

果して其年八月廿五日、長慶の一子筑前守義興於芥川城御早世あり。黄疸と云病起りて忽かくれ給ひけり。父の匠作は不申及、公方も御愁傷かきりなし。如何なる故ありてに、近く召仕ふ輩の中より食物に毒を入れて奉りかく逝去ありと後に聞えなり。又松永のわさとも申しける。

大意

その年(1563年)8月25日、長慶の一子筑前守義興が芥川山城にて早世した。黄疸という病が起こってたちまち亡くなった。父・長慶は言うに及ばず、将軍・義輝も嘆き悲しんでいる。いかなる理由があったのか、近くに仕える者が食物に毒を入れ、それで亡くなったと後に聞いた。また、松永久秀の仕業だともいう

『足利季世記』

慧音「死因が黄疸と明記しているほか、側に仕える者が食物に毒を入れて殺したと聞いた、久秀の仕業だともいう、と噂話として彼の関与を記しているな。

ちなみにこの記述の直前に東寺五重塔が落雷のため焼失したことが記され、これを『三好家余りに驕りを極め天下に勢威を振るい給うが故に』それが崩れる時節が訪れるお告げだと人々が噂していたところに、『果して』義興の訃報が飛び込んできた、という流れになっている。

東寺五重塔(京都府京都市。筆者撮影)。過去4度焼失しており、現在の塔は1644(寛永二十一)年に建てられた5代目。写真があまり良くないのはご容赦を…

何か嘘くさい…。

慧音

作り話感ありありだな。

慧音「一方、義興の死の約2か月前、久秀が石成(いわなり)友通に宛てた書状が現存している。

こちらでは義興の病状が悪化していることについて、『おいたわしく、さてもさても惜しいことであると、気も心も消え入りそうだ』と悲しみ、覚悟を決めて跡目の人間に尽くしていくこと、病状は内密にすべきであること、敵が出てくるのであれば討死する覚悟であるが、敵もおらず世上は静かであるので、葬礼で『思ひきりたる覚悟』を見せることが義興のため比類ない志となること、それらの心がけが肝要だ、といったことを述べている。

う~ん、でも手紙でなら何とでも言えるような…。

慧音

穿った見方をすればそうなる。ただ、実在する書状と後世の軍記物語、どちらが信用に足るか、ということだな。

慧音「それに、久秀にとって義興を暗殺するのはデメリットが大きいと思う。

確かに久秀は大きな権勢を有していたが、それはあくまで長慶・義興父子の力を背景にしたもの。彼は長慶の死後すぐ三好三人衆と争うことになるんだが、そこからも分かるように、三好家中の全てを掌握していたわけでもない。そんな状況で当主を暗殺するのは、後ろ盾を自ら潰すことにしかならない

この件についても、濡れ衣と考えていいんじゃないかと思うぞ。

PERSON

石成友通(?~1573)

「三好三人衆」の一人。畿内出身の出自が低い外様である点、奉行から重臣に出世した点、文化的な素養を持ち合わせていた点など、松永久秀と多くの共通点を持つ。長慶死後は久秀と対立。1度は信長に降るが、足利義昭の挙兵に呼応して離反。山城淀城で討ち取られた。

(3)安宅冬康の死

安宅冬康像(部分・国立国会図書館蔵。画像は同デジタルコレクションより)

慧音「1564(永禄七)年5月、長慶の二弟・安宅冬康が、謀反の疑いありとして摂津飯盛山城で誅殺された。彼は淡路の水軍衆を統率する立場にあり、長慶の弟として唯一の生き残りでもあった。

彼の死が久秀の讒言によるものというのが今日広まっている説だ。これまで同様、軍記物語の記述を確認しておこう。

永禄七年甲子五月九日に安宅摂津守(冬康)方を於飯盛城内被誅らる。人の讒言(松永久秀也)にて如此由に候。雖然長慶此御愁歎以の外にて御歓楽に成。七月四日に御死去候也。

大意

1564年5月9日に安宅冬康が飯盛山城内で誅殺された。人の讒言(松永久秀)によるものであった。長慶の嘆きはことのほか大きく、病に倒れた。7月4日に亡くなった。

『細川両家記』

慧音「ついに、軍記の中で久秀の関与によるものという記述がはっきり現れた。

他に『足利季世記』でも『相次ぐ一門の死に精神を病み、判断力の低下した長慶に久秀が讒言して冬康を死に追いやり、後で無実を知った長慶は激しく後悔し、病に倒れた』という内容の記述がある。

ついに久秀の悪事が暴かれる時がっ?!

慧音

ただ結局、これも確かな史料に基づいたものではないんだ。今紹介した『細川両家記』の記述、より古い写本には「松永久秀也」の註が存在しない。後世の編纂時、「きっと久秀の仕業だろ」と勝手に書き加えられた可能性もある。

守「じゃあ讒言がなかったとして、何で冬康は殺されなきゃならなかったわけさ?

慧音「現在挙げられている説の1つに、家中の分裂を未然に防ごうとしたというものがある。

義興の死によって、三好氏は後継者問題に直面していた。結局、一存の子である熊王丸(三好義継)を長慶の養子として家督を継がせることになった。義継の母が公家の名門・九条家の娘だったことが重視されたものだが、実休や冬康の子を差し置いて十河家の嫡男を無理に引っ張ってくるという歪な家督継承に、家中で反発があったことは十分考えられる。

家督争いで崩壊していった将軍家や細川京兆家の轍を踏まぬよう、有力一門として宗家の対抗馬になりえた冬康を無実でも粛清せざるを得なかった、それがこの説の骨子だ。

三好氏略系図(1563年時点・筆者作成)。これにより、後継者不在となった十河家も養子を迎えることとなった。

守「御家騒動を防ぐためとはいえ、弟を自らの手で殺さなきゃいけない、辛い選択だね…。

慧音「長慶も自らの病が重いことを悟って決断を急いでいたのかもしれないな。冬康粛清の2か月後、1564年7月9日、三好長慶はその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年43。

断腸の思いで弟を手にかけた長慶の決意も空しく、彼の死後三好氏は2つに割れて争うことになるわけだが…そろそろ時間だな。

まとめ

慧音

それじゃあ今回のまとめだ。

  • 1508年生まれ。出身地は摂津五百住という説が現在有力。三好長慶に仕え、1540年、史料に初めて現れる
  • 細川晴元を追放して政治の実権を握った長慶の下で、訴訟の多くを取り次ぐなど、三好長逸と並ぶ家臣団の筆頭にまで出世する。
  • 長慶が足利義輝と和睦したのちは、その嫡男・義興の補佐役として共に幕臣に取り立てられ、主君と並ぶ地位にまで昇進を重ねる。
  • 十河一存の死、義興の死、安宅冬康の死、いずれも久秀が関わったという史料的裏付けがなく、「久秀が下剋上のため三好一門を葬った」という俗説は、誤りである可能性が大きい
慧音

今日の講義はここまで!次回は久秀の残り2つの『悪事』について再検討していくとともに、彼の後半生を解説していく予定だ。

ありがとうございました!

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

主要参考文献

  • 今谷明・天野忠幸監修『三好長慶』(宮帯出版社、2013年)
  • 天野忠幸『松永久秀と下剋上』(平凡社、2018年)

↓後編の記事はこちら

【松永久秀の生涯・後編】「悪人」の汚名を背負って。【戦国人物録:File04】